子猫を食べる私を隣人が責めます 2
- 2008-02-09
- category : 食
まず、捕鯨に対する私の考え方の幾つかをまとめてみた。
・現在の日本において食料としての鯨が極めて必要とは思われない。食糧自給率の向上や新たな水産資源の開発は必要だが、その中で鯨に固執する理由はない。鯨肉の味・郷愁だけでは理由として弱い。
・近海捕鯨は歴史ある文化であるが、そうだとしても継承は映像等で記録するに留める。食文化の盛衰は捕鯨に限らない。遠洋捕鯨は文化伝承目的に関係しない。
・鯨の増加によって他の水産資源が減る懸念があるとしても、水産資源の増減には多くの要因が絡んでおり、鯨がどれ位寄与しているかも合意が得られていない中で、一国で調査を進めるのは効率的でなく、国際社会が問題を認識した後に対策を始めるべきだ。これはIPCC第四次評価報告書によって地球温暖化がようやく国際的な共通問題と認識された推移に等しい。集団での問題解決の為には問題意識を共有するステップが必須である。
・捕鯨費用について、2006年度は捕鯨を行なっている日本鯨類研究所へ国からは約9.4億円(補助金と調査委託費のみ。他団体迂回の無利子融資を除く)が出されている。9.4億円の税金を掛ける必要が捕鯨にあるのか疑問。国際社会より受け入れられやすい他の水産資源、または新たな家畜の開発に振り向けた方が効率的。
というのが私の理屈だ。
ただし、捕鯨活動の議論において理屈では結論が見いだせないとも思っている。捕鯨に関する歴史、文化、食物としての生き物を区別する是非、また調査捕鯨の必要性や調査方法や調査数など、これらの問題は絶対に正しいという主張が有り得ない。立場によって何とでも言えてしまうことは捕鯨推進派と反捕鯨派の主張を少し読むだけで思い知らされる。
そもそも、なぜ捕鯨推進国は捕鯨を推進するのだろうか。なぜ反捕鯨国は捕鯨に反対するのだろうか。理屈では立場によって何とでも言えるのなら、それぞれの立場の根本はなんなのだろうか。
私は日本の捕鯨推進の根本を、元々捕鯨をしていた日本がごり押しと感じられる論理で捕鯨を封じられ、権利を踏みにじられた憤りが根源に感じている。
反捕鯨国の根本は容易に推測できる。鯨に対する憐憫、鯨がかわいそうに感じる事、捕鯨への生理的とも言える嫌悪感だ。
ここで、「猫を食べる私とそれを嫌悪する近所の方々」という前回の例え話に戻る。
例え話では「隣人」は猫食に対して嫌悪感を示している。日本人の多くは猫食にも犬食にも嫌悪するだろう。猫食や犬食の文化があった韓国や中国でも反犬猫食の機運は高い。これは犬や猫が愛玩動物として人の生活に組み込まれ、感情移入できる対象となったことが大きい。
そもそも感情は理屈では抑えがたい。反捕鯨国の根本と仮定した嫌悪感は特に打ち消しがたい。例え話は、おそらく反捕鯨を主張する方には嫌悪感があって、それは私自身が猫食に抱く嫌悪感に似ているだろう、という予想の上で、この嫌悪感を実感しやすいように作った。「私」がいかに猫食の合理性を訴えても、また仮に猫食がすばらしい発見であったとしても、「隣人」の嫌悪感はそう簡単に静まらないだろう。鯨についても同じだと思っている。
日本の捕鯨推進も根源も、非合理的な権利剥奪に対する憤りの感情に由来するように思われるから、これも理屈では曲げられないだろう。
余談だけれど、似た構図は日本の靖国神社参拝に対する中国政府の反応にも見られると思っている。
基底が感情論である議論の中で日本はどうすべきなのか。問題解決の主眼の第一は、「国際社会の中ではなるべく多くの国と仲良くしておいた方が良い」という信念である。その上で、「理屈・論理はともかく、国際社会が反対している捕鯨活動を押してまで行なうメリットがあるかないか」が判断基準ではないかと思っている。正しさの追求ではなく、メリットとデメリットをどの程度に評定するか、という程度問題なのだ。
捕鯨活動が国際社会の中で劣勢か否か。日本捕鯨協会のホームページでは「加盟78カ国中35カ国以上の国が日本とともに鯨類資源の持続的利用を支持」と書かれているが、主要国首脳会議(G8)参加国中で捕鯨推進はロシアのみであるから、国際社会の勢力としては反捕鯨が圧倒的と考えて良い。
私には、国際的な反捕鯨色の中で捕鯨を進めるだけの大きなメリットが見あたらず、逆に捕鯨を中止または縮小することで得られる国際協調優先の国家色アピールのメリットの方が圧倒的に大きいと感じている。調査捕鯨を中止し、商業捕鯨を断念するか、日本近海に限った捕鯨のみ継続する方向に変換すべきと考える。
theme : 捕鯨・反捕鯨問題
genre : 政治・経済
tag : 捕鯨





